本堂向かって左手に旧刈谷士族会の(財)刈谷頌和会の利勝寺本尊(阿弥陀)佛並びに土井家歴代の
お位牌を納め、さらに、左手には土井家の廟所がある他、刈谷藩の漢学と甲州流軍学の師である
松元印南の次男で、幕末の天誅組総裁の松元奎堂(謙三郎)の墓があります。
當山は明治維新迄の江戸時代後期122年間、
刈谷藩主として治めていた土井家の刈谷藩菩提寺であり、
土井利勝公の参男の利長公を藩祖とする。
天正(1573)、刈谷城主水野信元の子として生まれ(家康の庶子と言う説もある)、土井利昌の養子として成長した。幼名松千代、甚三郎。
幼い時より、徳川家康に近侍したという。天正7年(1579)二代将軍秀忠誕生にともない付属、側近となる。天正19年(1591)、千石知行(せんごくちぎょう)となる。
慶長5年(1600)、会津の上杉景勝征伐の秀忠に供奉。使番を務める。
慶長7年(1602)、下総国小見川1万石、慶長15年(1610)、下総国佐倉3万2千石余に移封。
慶長17年(1612)、この頃、秀忠の使いとしてしばしば駿府に赴き、密談に列する。また、国政に関与しないことがないといわれる。家康より金1000両、加増され4万5千石。慶長19年(1614)大坂冬の陣を前につかいとして駿府に。秀忠と家康双方の伝達役となる。秀忠、江戸出発に供奉。四番隊の将として軍団一万を預かる。
冬夏の両陣とも、秀忠のもと左軍大将を勤める。元和元年(1615)、江戸帰還後6万5千石余に加増。
元和2年(1616)、家康薨御、久能山へ葬る時、秀忠名代として参列。寛永2年(1625)、執事職となり、5万石加増、都合14万2千石となる。寛永9年(1632)三代将軍家光に仕える。寛永10年(1633)、佐倉城主をあらため、1万8千石加増16万石下総国古河城主、老中となり幕政に参与、寛永15年(1838)大老となる。従四位大炊頭。明敏で知略に富む性格から一身に信頼を集め、智の大老といわれた。正保元年(1644)没。
三河刈谷土井家の祖利長は利勝の三男で西尾藩初代藩主。
四代利信が西尾より刈谷に転封、14代刈谷藩主となり、以後22代刈谷藩主利教まで9代続き維新となる。