文久3年(1863)8月13日孝明天皇の攘夷祈願のための大和行幸が朝廷にて決定された。
(この内実は桂小五郎らの献策による倒幕行動でした)
これを機に三河刈谷脱藩の松元奎堂、土佐脱藩の吉村寅太郎、
備前岡山脱藩の藤本鉄石らが、急進派の青年公卿中山忠光(明治天皇母方叔父)を主将に擁し、
天皇の大和行幸の先鋒隊として大和へ集結、8月17日五条代官所襲撃、
桜井寺を本陣として五条新政府を開いた。
しかし、翌18日、頼みの朝廷の急進尊攘派が一夜にして公武合体派により追放され
大和行幸は中止となった。いわゆる有名な”8.18の政変”
この政変が天誅組の不運と悲劇の始まりであり、天誅組は一転して窮地に追い込まれた。
引くにひけない天誅組は軍を率いて十津川に進み十津川郷土を加えて高取城を攻撃するも、
鉄砲火による猛反撃にあい惨敗。京都では朝幕による天誅組追討令が発せられ、
紀州、彦根ら近畿諸藩の討伐軍が集結、天誅組には重囲の中に孤立した。
以後42日間に亘り、吉野山中を転戦、逃避行を続けた後、鷲家口の戦いを最後に天誅組は壊滅した。
天保2年(1831)12月7日刈谷城丸のうち(今の司町)の藩邸にて刈谷藩士松元印南の二男として生まれる。生まれながらにして俊敏、幼少より母きかの薫陶を受け、漢字、
軍学者の父について学び、三歳で読み書きをし、四歳で「大学」を諳じ、11歳で漢詩を作ったという。文武共に秀でていたが、18歳の時、槍の練習中相手の槍で左目を
突かれ失明。人々があわてふためく中、「片目でも結局眺めのよしの山」と吟ずる豪胆さであった。
22歳刈谷藩から選ばれて江戸昌平黌に学び、舎長にまでなった。後に久能山の家康の廟前でこれを罵るほど激しい気性でもあった。
天誅組の総裁の一人として挙兵した時、その軍令書を起草。その純粋にして無私、格調高い軍令書の存在が天誅組の評価を更に高めたと言われている。
朝幕による追討軍と吉野山中を転戦中、十津川陣中にて終に両眼を失明、駕篭にて移動中、東吉野伊豆尾にて紀州藩軍勢の銃撃により戦士(自刃)した。享年33歳。